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■埼玉県内にも多くの城跡が存在する。
建造物が現存するもの。石碑のみのもの。また、土塁や空堀が立派に残るものなど…。
■武将や大名たちが活躍したその時代、その場所、
同じ地を踏むことで
我々は何を感じることが出来るだろう。
■今月は昨年の5月号に続いて贈る「埼玉の城跡」Part6だ。
岡城【朝霞市】
北朝霞駅または朝霞台駅から徒歩30分程度だろうか。黒目川に沿った台地にあるのがこの「岡城」だ。しかし記録などが残っておらず、城の詳細については謎が多い。また「新編武蔵風土記稿」によれば太田道灌が築いたという伝承があるが、定かではない。
城跡は「城山公園」として整備されている。特に周辺の遊具のある広場や四の郭があったはずの正面入口付近などは完全に公園として整備されてしまった。しかし城山に登れば、本郭、二の郭、三の郭や堀切、土塁、空堀、帯郭などが良く残されており、城跡の雰囲気を味わうことは充分にできるだろう。また、これらを巡って遊歩道も整備されているので、周辺に住む人々の散歩コースにもなっているようだ。城としては比高が10メートルほどの台地上に展開され、東側に黒目川があり、南側にも谷津があり、自然の要害となっている。
城跡の前を通る道は「城山通り」。朝霞市内循環バスの「城山公園停留所」が正面入口の前にあるので、北朝霞駅からこのバスを利用するのも便利だろう。
【メモ】
所在地/朝霞市岡3丁目386
問合せ/朝霞市都市計画課 みどり公園係☎048(463)0374
二の郭
三の郭
正面入口
金窪城【上里町】
神流川に臨む崖上に残る平城の城跡である金窪城は平安末期の治承年間(1177〜81年)に武蔵七党の一つである丹党の加治家治の構築と伝えられ、元弘年間(1331〜34年に)新田義貞が修築、家臣の畑時能に守らせたという。その後、室町中期の寛正年間(1460〜66年)には斉藤実盛の子孫である斉藤盛光が居城したが、天正10年の神流川の合戦において一族がすべて討ち死に、城は焼失し斉藤家も没落した。後に徳川家康が関東に入るとともに川窪氏の所領となり陣屋が置かれたが元禄11年(1698年)に川窪氏が丹波国に転封となり陣屋も廃止されたという。
上里町では国道17号線から旧中山道へ入っていくと解りやすい。近くには黛神社がある。
【メモ】
所在地/児玉郡上里町大字金久保1570
城跡公園
本庄城【本庄市】
現在の本庄市役所や城山稲荷神社のある場所がそっくり本庄城跡だ。本庄城は弘治2年(1556年)に本庄宮内少輔実忠により築城されたと伝えられている。幾度かの変遷を経て最後は徳川家康の関東入国に伴い、小笠原信嶺が1万石で城主となったが慶長17年(1612年)に廃城となった。
城の北側には元小山川が流れ、南東は久城堀で切断された自然の要害となっている。なお域内にあるヤブツバキは戦国時代に本庄城主である本庄実忠が西本庄の地から椿稲荷を写したことにちなんで餓えられたものだ。
【メモ】
所在地/本庄市本庄3の5交通/本庄駅徒歩10分。
問合せ/☎0495(25)1111(市役所)
元小山川
本庄市役所が城跡
大蔵館【嵐山町】
大蔵館は源氏の頭領、源為義の子、源義賢の居館であった。都幾川を望む台地上にあり、現存する遺構から類推すると東西170メートル、南北200メートルほどの規模だったと思われる。この館があった名残か、このあたりの地名は御所ケ谷戸や堀之内が残っている。
現存遺構としては土塁や空堀などが残っており、かつては高見櫓の跡もあった。現在は域内に稲荷神社と大蔵神社の2つがある。
義賢は久寿2年(1155年)に甥の悪源太義平に討たれが、次子である2歳の駒王丸は畠山重能に助けられ、斉藤別当実盛によって木曽の中原兼遠に預けられた。これが後の木曽義仲である。
【メモ】
所在地/比企郡嵐山町御所ケ谷戸522
交通/国道254号線の上唐子信号を玉川村方面へ
稲荷神社もある
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