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尾崎花苑(書家・懐玉會代表)
槇晧志先生の思い出を…

 
角田 尾崎さんとの対談は2回目になりますね。前に対談したのはもう6年も前のことですね。
尾崎 そんなになるんですね、コロナの前ですね。
角田 もちろんです。前回の対談では特に旅の話をしましたね。インド旅行の話など…。
尾崎 そうでした。ヨーガの角田照子先生のインド旅行に参加したものでした。面白い話がたくさんありましたよ。絶対にガンジス川に沐浴してはいけませんって言われていたのに入っちゃった。
角田 あれにはびっくりでしたね。さて、そういうわけで今回は特に槇晧志先生とのお話をメインにしていきたいと思うのですが…。
尾崎 はい。槇先生ですね。
角田 槇先生は偉大な詩人で、先生のことを思い出すと必ず尾崎さんのことも出てきてしまうんです。で、尾崎さんが槇先生と関わるようになったいきさつというのはどんなことだったんでしょうか。
尾崎 私は長いこと書道をやっていたんですが、平成6年に書の師が逝去されました。それで日展をはじめ、読売書道や公募展など様々な役員を辞めました。その当時私は100人くらいの方々に書を教えていたんですが、今後どうしようかと相談したのが恩師である文学博士の今枝二郎先生だったんです。今枝先生は大正大学の名誉教授でした。
角田 なるほど…。
尾崎 今枝先生のお宅は槇先生の近所だったんです。
角田 ほう、今枝先生も浦和一女のそばだったんだ。
尾崎 はい。仮住まいだったようです。後に他の場所に転居されたんですが、その今枝先生が「あなたの近くに素晴らしい先生がいるから紹介するよ」と言って紹介されたのが槇先生だったんです。
角田 なるほどね、そういう経緯があったんだ。槇先生はずっと浦和一女のそばにお住まいでしたからね。でも尾崎さんは書の先生でしたよね。それなのに詩人の槇先生を紹介された訳はなんだったんでしょうね。
尾崎 これから先、書を含めてどのようにしていったらいいのかを相談したんですが、様々なことを幅広くやっている先生がいるからということでしたね。
角田 それで槇先生を訪ねたんですね。
尾崎 はい。そうしましたらまず会を立ち上げて県の文化団体連合会に入りなさいって言われました。それでいきなり連れて行かれました。
角田 やることが素早い(笑)。
尾崎 そこで会長をしていらした関根将雄先生にお会いしました。関根先生は「ぜひ入ってくれ」ということで即入会しました。
角田 それも素早い。
尾崎 関根先生からは「入会したからには日本の文化を学ばなければいけない。それには書だけやっていたのではダメで日本や埼玉のいろんなことを学びなさい」と言われました。
角田 確かに大切なことですね。
尾崎 そうなんですね。そうしたら槇先生は「お母さんが使っていた着物がたくさんあるでしょ、あなたはそれを着なさい」などとおっしゃるんですよ。
角田 確かに着物も日本の文化ですね。
尾崎 それから着物を着るようになりました。今日も着物です(笑)。
角田 それまでは着物を着る習慣はなかったのですか。
尾崎 あまりなかったですね。その時に立ち上げた会に「懐玉會」って言う名前をつけて下さいました。槇先生はこれも「かいぎょくかい」ではなく「かいぎょくえ」だよって。その時に第1回展をやりまして、それ以来1年おきに開催しています。今年はちょうど30周年で第15回記念展になります。
角田 11月に埼玉会館で行われるんですね。いいですね。ぜひ拝見に行かないといけないですね。ところで私が槇先生に最初にお目にかかったのは中学生くらいの頃だったです。もちろん私が知るわけはないので親父と一緒に会いましたね。
尾崎 そんな昔にね。
角田 でも子どもでしたからただそれだけのことです。武州路の仕事をするようになってから本格的におつきあいさせていただくようになりました。
尾崎 そうでしょうね。
角田 でも、一番インパクトがあったのはまだ肌寒い春の夜に槇先生から調神社の公園に呼び出されたときのことかな。花見をするから出てこないかって。
尾崎 ああ、あの時のことですね。
角田 呼び出されて出かけていったら、そこには公園の石の上に座って、くさやを肴に酒を飲んでいる先生と尾崎さんがいました(笑)。
尾崎 私もね、槇先生とは数え切れないほど一緒にお酒をいただきましたけど、あの時のことはよく覚えています。笑ってしまいますよね。なにしろ飲んで騒いで踊ってですから(笑)。
角田 本当に印象的な夜でした。
尾崎 槇先生の書斎は和室2つを通して2階にあるんですが、まるで獣道を歩くように進むんです。
角田 獣道って(笑)。
尾崎 2間の奥の部屋に座卓があって先生の座る場所があるんです。そこに至るまでの床には書物や文献などがいっぱい積んであるんです。そこを獣道を歩くようによけながら行くんです。細いので歩くのも大変なんです。そして行き着いたところに先生座るように座布団があるんです。そこにお酒にお燗をつけるためのポットがあるんです。脇にはお酒がいっぱい積んであるんです。
角田 すごい光景だ。でも想像できますよ。座ったままですべてのものを手に取ることが出来るんでしょうね。
尾崎 来客用のテーブルは大きな木で出来ていて、大きな節穴みたいな穴が2つばかりあるんです。私はその穴の中にすっぽり入ってしまいました。そこで「尾崎さんお酒飲むかい」って。一緒に飲みましたが、先生はあのピカピカ光る唇でおいしそうに飲まれていましたね。
角田 う~ん、いいなあ。素晴らしい光景。現代ではあまり考えられない景色だ(笑)。
尾崎 それでね、周りはいろいろなものがたくさん積んであるのに先生の後ろだけ何もないんです。細くなにもない部分があるんですよ。
角田 それは?
尾崎 飲んだときに酔っ払ってそのまま後ろに倒れれば寝られちゃう(笑)。
角田 うわっ、それはいい(笑)。
尾崎 先生の形に何もない部分があるんです。先生の書斎ではそれがとても印象的でした。
角田 それって大正・昭和の文学者の書斎のにおいがぷんぷんします。今の詩人や作家などの文学者にはそんな匂いはしないですよね。原稿もパソコンで打ってしまう時代だし。
尾崎 当時は原稿用紙に手書きでした。まさに最後の文人っていう感じですね。お酒を飲むとよく軍歌を歌ってました。
角田 そうなんですね。
尾崎 それでね、先生がお亡くなりになる当日のことなんですが、娘さんから電話がありまして「今日あたり危ないって言われているので来ていただけませんか」って言うことでした。
角田 すぐ行かれたんですか。
尾崎 はい。夕方になりましたが行きました。
角田 それはいつでした?
尾崎 平成19年11月10日でした。玄関のところで「先生!」って声をかけましたら「はーい」って返事があったんです。それで急いで先生の所に行ったんですが、もう返事はなくなりました。それで一生懸命声をかけたんですが反応がなかったので同期の桜を歌いました。そうしたら先生の口が少しだけ動いたんです。息づかいも歌にあわせていたんです。これは歌っていいるんだなって思いました。それで先生の手を握ってずーっと歌い続けていました。エンドレスです。でも最後に息を吸ってハーッて吐いて、そのまま。
角田 先生のご臨終に立ち会われたんですね。なかなか出来る経験じゃないですね。
尾崎 ドクターが来るまで2時間、先生と2人で待ちました。先生のベッドの下からはお酒の1升瓶がゴロゴロ出てきました。ほとんどご飯がわりにお酒ばかり飲んでいたようでした。
角田 武州路も槇先生には大変お世話になりましたからね。あの時は本当にびっくりしました。
尾崎 私も武州路に原稿を書くようになったのも、ヨーガの照子先生とおつきあいするようになったのもみんな槇先生のご紹介ですから。
角田 そんな槇先生との出会いから懐玉書展が始まって30年経ったんですね。その書展について詳しく教えて下さい。
尾崎 会場は埼玉会館の第1・第2展示室です。会期は今年の11月22日の金曜日から24日の日曜日までです。時間は10時から17時まで。ぜひいらしていただきたいですね。
角田 今、何人くらいの方が出品されているんですか。
尾崎 約50人ほどですね。
角田 ぜひお伺いさせていただきます。
尾崎 前にも来ていただきましたよね。
角田 そうでした。ところで最近は旅をしていますか? 尾崎さんには旅の武勇伝がたくさんありそうで、そんな話も対談や随筆のテーマになりそうです。
尾崎 最近はあまり行けないですね。
角田 特にコロナがありましたからね。最近は海外旅行も復活し始めましたが、費用がずいぶん高くなりました。コロナ前でしたら5万円~7万円くらいで行けた東南アジアなどでも簡単に倍くらいの価格設定になっていたりします。
尾崎 そうですよね。
角田 尾崎さんも含めて書家のかたがたはよく中国に行かれますよね。やはり書の原点は中国なのかな。中国には素晴らしい観光の場所があるんでしょうけど、なんとなく怖いイメージがあります。写真を撮っていてうっかり軍事施設などが映り込んでしまったらスパイにされそうで(笑)。
尾崎 それ、笑い事じゃないんです。私も何回かスパイにされそうになった経験がありますからね。中国には30回以上も行ってますから。
角田 そんな話も面白そうですね。尾崎さんの旅の話はいずれ対談や随筆でご披露いただきたいと思っています。
尾崎 そのうちにできるといいですね。
角田 今日は久々に楽しいひとときを過ごしました。これからもご活躍をお祈りしています。
尾崎 こちらこそありがとうございました。今度は吉博さんをテーマにしても面白そうです。
角田 親父の話ですか。いずれできましたらということですね(笑)。