萩中弘行(仲間達の美術展主宰)
仲間と知美開催

角田 まず始めに萩中さんご自身のことをお伺いいたします。ご出身はどちらでしたか。
萩中 生まれたのは栃木県でした。今で言うと日光市になるのかな。鬼怒川です。
角田 温泉で有名な良いところですね。そこで少年時代を過ごされたんですか。
萩中 そうですね。
角田 で、埼玉に移ってこられたのは?
萩中 小学校の6年生の時かな。さいたま市にある谷田小学校です。
角田 6年生の時に移ってこられたと言うことは小学校時代の大半は鬼怒川だったんですね。
萩中 そういうことになります。だから懐かしいですよ。4月に展覧会を開いたときにも鬼怒川時代の同級生が駆けつけてくれました。みんな鬼怒川のホテルの社長さんになっていました。
角田 そうなんですね。やはり温泉旅館やホテルが多い地域だから。
萩中 私は昭和20年の生まれで、戦争が終わってすぐです。でも私が生まれる前、父親は東京にいましてね、空襲で焼け出されて鬼怒川に疎開したんです。
角田 それで鬼怒川だったんですね。小学生の頃しかいなくても、やはり故郷意識は強くなりますよね。
萩中 そうですね。
角田 私も小学校3年から高校1年までは赤羽でしたから、東京であってもやはり故郷意識があります。
萩中 なるほどね。
角田 ところで、萩中さんは子どもの頃から絵を描くのが好きだったんですか。
萩中 ぜんぜん(笑)。
角田 あはは。だいたいそういう人が多い(笑)。谷田小学校に移ってこられたときはどんな感じでしたか。
萩中 やはりね、鬼怒川時代の小学校よりは綺麗じゃなかったです(笑)。
角田 あれま。そうなんですね。
萩中 鬼怒川という所は豊かだったんです。だから学校なども綺麗なんですよ。鬼怒川の奥の方は本当に田舎ですからね、戦後で食べるものがない時代でもひもじい思いはしないんです。あの時代は日本国中が大変だったですよね。でも田舎は食べるものには不自由しなかったですね。
角田 確かに戦後の食糧難の時代には東京に住んでいる人たちは大変だったと聞きますね。みんな田舎に買い出しに行ったとか。
萩中 角田さんは経験ないでしょうけど、当時の子どもたちは米軍からいろいろなものをもらいました。
角田 鬼怒川でですか?
萩中 はい。あの頃鬼怒川は米軍の保養地になってまして、温泉を求めてよく来ていたんです。
角田 ほう。
萩中 彼らが来ると、バターやチョコレート、コーヒー、キャラメルなどを通りに並べて「子供たちは並びなさい」って言ってそれらの物をくれるんです。食べたことのない物ばかりでしたよ。大人達は「取って食われるから行っちゃダメだ」って言ってたんですけどね。
角田 あはは、取って食われちゃうですか。
萩中 そうなんです。でもね、子供たちがバターやマーガリンなどを「米軍のおじちゃんに貰った」って言って家に持って帰るでしょ。それが何回も続くと「行って貰ってきなさい」だって(笑)。
角田 戦後の厳しい時代でしたけど、そういう経験はないですね。私は昭和24年の生まれですからたった4年しか違わないんですけどね。もっとも田舎ではなかったですが…。
萩中 懐かしい話ですよ。
角田 さて、少年時代の懐かしい話も楽しいですが、そろそろ本題に入りましょうか。子どもの頃はぜんぜんとおっしゃってましたが、萩中さんが絵に興味を持たれたのはいつ頃だったんですか。
萩中 ちゃんとやり出したのは会社を定年してからです。
角田 会社員時代にはまったく描いてなかったんですか。
萩中 見よう見まねで、少しは描いてましたけどね。でも先生についてきちんと始めたのは定年後でした。その後、先生を何回か変えました。
角田 それはどうしてですか。
萩中 私が描きたい絵と違うなって感じたらやはり変えないわけにはいかなかったんです。4人目の先生がいいなって思いました。
角田 なるほどね。どんな先生でしたか。
萩中 墨絵を描きながら水彩画も描いている先生です。この先生に出会って、素晴らしい先生だと思いましたのでそれからは一生懸命やりました。先生の筆の運びまで研究しました。
角田 その先生が萩中さんの描きたい絵とよほどあっていたんでしょうね。
萩中 仲間からは「急に画力があがったな」っていわれました。やっぱり良い先生を見つけるっていうことは大切なことです。
角田 先生についていたのは何年くらいですか。
萩中 5、6年くらいですね。
角田 そうなんですね。去る4月18日から23日まで「仲間達の美術展」というのを開催されてましたよね。
萩中 これはね、私の周りの仲間達の展覧会ということなんです。埼玉会館の第2展示室で行いました。
角田 先ほどお話しの冒頭で4月に展覧会を開いたときに鬼怒川の方々が駆けつけてくれたとおっしゃった展覧会がこれだったんですね。
萩中 そうです。私が関係している絵のクラブが浦和画塾やなでしこ会、水絵会なんですが、それに加えて写真の赤甍というクラブの4つが集まって開催しました。
角田 写真クラブも参加したんですね。
萩中 私は家庭菜園をやっているんですが、その菜園の隣でやっている人が写真クラブの人だったんです。
角田 なるほど。かなり盛況だったそうですね。
萩中 全部で30人の人たちが約300点の作品を展示しました。
角田 これを主宰されたのが萩中さんなんですね。観覧された人数も把握されていますか。
萩中 会期中に約600人の方が来て下さいました。
角田 それはすごい。
萩中 結果的にに「凄い人数ですね」と言われますけど、そうなるように仕組むのが主宰者である私の仕事なんですよ。
角田 なるほど…。
萩中 私の他にあと2人、若山一雄さんと畑惠子さんがいるんですが、私を含めたこの3人が10年来の古い友人で、「3人で個展をやろう」と1年前に発起しました。でも「無名の3人がいくら立派な埼玉会館でやったってお客さんなんて来ないぞ」と思いまして、「仲間を集めないとダメだな」ということになりました。
角田 確かにそうかもしれませんね。
萩中 幸いにして私はいろいろな所に足を突っ込んでいたので個展の協力をして貰うように仲間を集めました。さっきも言いましたが30人の仲間でしょ。ということは1人が10人のお客さんを連れてこられればそれだけで300人です。もちろんチラシなども作りますが、それは300人をイメージしてのことです。
角田 そのようなことを考えて実現する実行力が必要ですね。それが萩中さんにはあったと言うことです。
萩中 それが結果として600人になったんです。
角田 今回の仲間達の美術展は3人で個展を開きたいという話から始まった展覧会ですが、内容としては4つのグループ展ということですね。
萩中 私と若山さん、畑さんの3人による3名の個展と4グループ展ということです。
角田 展覧会は大成功と言うことでしたが、萩中さんが描かれている作品は水彩画ですよね。
萩中 そうです。元は油を描いていましたが、私に孫が出来ました。その孫が「じいちゃんと一緒に絵を描く」と言って私の両側に座るんですよ。
角田 孫は可愛いですからね。嬉しい話です。
萩中 確かにうれしいんですが、油絵はシンナーを使うじゃないですか。
角田 あっ!
萩中 そうなんです。油をやっていたら孫にシンナーを吸わせることになってしまいます。それでこれはいかんと言うことで油絵の具を全て捨てました。孫を思う気持ちですよ。
角田 さすがです。この仲間達の美術展は今後も定期的に開いていきますか?
萩中 その予定はありません。
角田 ないですか(笑)。気が向いたらやるとか?
萩中 いや、1回限りです。テレビでは「これが数多く継承されることを期待します」と言ってますが、それはないですね。死ぬ前に1回やろうぜということでやったものですから。
角田 でも絵はこれからもずっと描き続けるんですね。
萩中 そうですね。これをやったことによって、一生懸命やることの大切さを感じました。結果はどうであれ頑張るということが大事だなと思います。それから良い仲間を持つことも大切ですね。
角田 そうですね。頑張ること、仲間を持つこと。いいですね。
萩中 絵に限らずどんなことでもそうだと思います。そして仲間を持つことで何が良いかというと、絵を中心にすることによって楽しいし、周りの仲間も大いに楽しんでくれるから、難しい世の中にあって1つのことに傾注して結果を笑い飛ばせるっていうのは良いことじゃないですかね。
角田 萩中さんの会に入って一緒に絵を描きたいという人がいたら、加わることは出来るんですか。
萩中 う~ん、すでに皆さんかなりのレベルになっているベテランですからね、そこに入ってくるって言うのは大変でしょうね。手取り足取り教えると言うことはしませんしね。時々入ってこられますよ。でもついていけなくて自然にやめてしまう人が多いです。
角田 なるほど、では絵に自信のある方なら大丈夫そうですね。
萩中 よかったらさいたま市の谷田公民館に来て一緒に描きませんかということですね。ベテランでしたらスッと入れますよ。
角田 最後になりましたが、今回の「仲間達の美術展」のモニュメントとされた大きな絵について説明していただけますか。
萩中 この絵は妙義山の絵なんですが、今から10数年前に雄大な妙義山に圧倒されて小さなスケッチを描きました。ところが去年、奥多摩の川合玉堂美術館を訪れましたら、私とまったく同じ所に座って描いたという玉堂さんの絵に触れることになったんです。
角田 なるほど。
萩中 玉堂さんの絵は鉛筆デッサンでしたが、私が描いた絵とまったく同じ構図でした。そのことに感動しまして、もう1度1メートルの大きな絵に描いて今回の展覧会のモニュメントにしたものです。
角田 水彩で1メートルの絵って大変じゃないですか。
萩中 そんなことありません。市展や県展ではもっと大きな絵を描きますよ。
角田 そうでしたか。しかし川合玉堂が描いた絵と同じ場所で描き、さらに構図も同じだなんてびっくりです。
萩中 本当に凄い偶然です。それもあるのかもしれませんが、今回の展覧会では「萩中さんの絵は川合玉堂の世界に通ずるような水彩画だね」という涙も出るようなお褒めの言葉をいただきました。
角田 それは素敵なお話ですね。
萩中 もう1つ、浦和の玉蔵院の枝垂れ桜の絵があります。玉蔵院は弘法大師創建の寺で、樹齢百十年以上と伝わる枝垂れ桜を描きたくて2年間通いました。年末年始の頃には植木職人が枝を整えていました。花の季節より冬の方が枝ぶりがよく見えます。よく見ると1本の大木が下の方で分岐し、そのあたりには瑠璃色に光る苔が派生していて歴史観があります。それを見てしっかりと描きました。
角田 素晴らしいことですね。これからも素敵な水彩画を描いて下さい。ご活躍を期待しています。