東京オリンピック記念碑


西ところざわ道庚申塔


いも街道の標識


いも街道


エリアマップ


開拓の碑


島田家住宅


島田家住宅内部にある落ち葉を運んだ籠


島田家内部


島田家長屋門


多福寺山門


多福寺山門


田中王堂墓


多福寺鐘楼


多福寺隣にある神明社


多門院

元禄の開拓 三富を歩く


 

三富の歴史

 
徳川時代は関東における治水の歴史といっても過言ではなく、徳川氏が関東に入ると、すぐに大規模な河川改修を開始したのだった。また治水とは別に開発が遅れていた西部地域の新田開発にも力を入れている。
新田開発は元禄7年(1694)に川越藩主となった柳沢吉保によって行われた三富新田開発に代表される。
この三富新田開発は川越城から約12キロ南にある地蔵林を拠点としたもので、東西約3.6キロ・南北約2.2キロの規模だった。そこに1戸分約5ヘクタールの耕地を短冊形に均等に配置している。また、1戸分の間口は約72m、奥行きは約680mとし、幅10.8mの道路を造っている。道路の両側には屋敷や耕地、雑木林などを短冊形に配置したのだった。
開発名主の島田忠右衛門が元禄12年に記した「武蔵野古来記」によると、開発は元禄9年(1696)に完成し、同年5月に検地を受けたとなっている。
この検地では、屋敷の戸数は上富91戸、中富40戸、下富49戸の計180戸だった。この整然とした地割と景観は現代でも残されており、一見の価値があるだろう。
また、ここに薩摩芋がもたらされたのは寛延4年(1751)といわれ、その後には生産が飛躍的に拡大し、「富のイモ」として有名になったという。
 
■三富新田は江戸時代の元禄期に開拓された地域で、入間郡三芳町上富と、所沢市中富及び下富エリアに広がる農地だ。現在でも農地と平地林の美しい景観が残されており、林の中に立ってみればその雰囲気に悠久の魅力を感じ取ることが出来るだろう。
■今月号と来月号の2回に渡って、その三富エリアを歩く特集を組んでみた。開発時の名主であった島田家住宅や、多福寺、多門院、神明社などの寺社、そして新しく出来た三富今昔村など魅力いっぱいの地だ。
 

三富を歩く

 
 さいたま市方面から国道463号線を所沢方面へ進み、関越自動車道の所沢インターを過ぎると「亀久保」の交差点がある。ここを右折すると三富への道だ。やがて左側に現れるのが「五輪之和」碑で、「1964年10月に行われた第18回オリンピック東京大会クレー射撃場となった場所だ。さらに昭和42年(1967)10月には第22回埼玉国民体育大会でもクレー射撃競技が行われ、天皇皇后両陛下が来場された行幸記念碑が建てられている。
 さらに道を進むとすぐに南永井通りと交差する。この場所にあるのが「西ところ沢道庚申塚」だ。
 
■いも街道
 さらに進むと丁字路にぶつかるので左折する。するとすぐに信号があるのでここは右折だ。この先がまさに三富エリアになる。道には大きな欅並木があり、「いも街道」の標識があった。
 
■島田家住宅
 少し進むと左側に「島田家住宅」が現れる。島田家は三富の開拓名主の家柄で、現存する三富地区最古の民家。建築年代は文化文政の頃(1804~29)。木造平屋で茅葺寄棟造りとなっている。現在、三芳町の有形文化財に指定されている。駐車場もある。
 
■江戸屋弘東園
 さらに進むとやはり左側に立派な構えの江戸屋弘東園が現れる。いも農家で、この地の名物である「富の川越いも」を買うことが出来る。なお、いもの販売期間は9月1日~2月10日まで。3月~8月20日まではギャラリー喫茶になるそうだ。
 
■島田家長屋門
 弘東園の少し先左側には島田家長屋門がある。上富村の名主を命じられた島田忠右衛門の長屋門で、江戸時代には武士の屋敷か名主など一部のものだけが建てられた格式の高い門だ。駐車場はない。
 
■三富開拓新田の形状
 右ページのイラストのように1区画の大きさは間口約72メートル、奥行き約680メートルで、屋敷地、耕作地、雑木林の3つに区分されていた。
【メモ】
★島田家住宅
所在地/三芳町上富1279・3
電話/049(258)0220
入館料/無料
時間/9時~16時
休館日/月曜・祝日・年末年始
交通/東上線ふじみ野駅からライフバス6番線で上富小学校下車すぐ
★弘東園
住所/三芳町上富1388・3
電話/049(258)2711
定休日/毎週水曜日
 

多福寺界隈

 
 島田家長屋門の直ぐ先の交差点が「多福寺前」だ。鬱蒼とした雑木林の中に歴史を感じさせる建物が広がっている。
 
■多福寺
 三富新田の開拓では、出身地の異なる農家が集って開拓を進めていたので、まとまりを作る必要があったそうだ。そのため、元禄9年(1696)に川越藩主柳沢吉保は、菩提寺として「多福禅寺」を上富に、祈願所として「毘沙門社」(現多聞院)を中富に建立した。それまでは、菩提寺は上富村が亀久保村(現ふじみ野市)の地蔵院、中富村・下富村は大塚村(現川越市)の西福寺としていたという。これが多福寺建立によって三ヶ村とも菩提寺を多福寺としたのだ。多福寺は緑濃い雑木林の中にあり、散策するにもうってつけの場所だ。
 
■柳沢吉保
 多福寺の山門には「花菱」の家紋が付けられている。この家紋は戦国時代の甲斐武田家で使われていた。川越藩主となって三富を開拓した柳沢吉保の祖先である柳沢氏は甲斐一条氏の後裔を称しており、戦国期には甲斐守護武田氏の家臣となったことから、この家紋を使ったのだろうか。
 柳沢吉保は柳沢安忠の長男として江戸の市ヶ谷で生まれ、家督を相続後、徳川綱吉の家臣として幕臣となった。1694年には武蔵国川越藩7万石の藩主となり、この三富の開拓に着手したのだ。また後には甲斐の甲府城や駿河にも所領が与えられて15万石の大名となった。また1706年には大老にまで上り詰めた。55歳で亡くなり、墓は甲州市の恵林寺と大和郡山市の永慶寺に置かれた。
 
■元禄の井戸
 三富開拓の時に一番問題となったのが水の確保だった。柳沢吉保は上富地区に4ヵ所、中富地区に4ヵ所、下富に3ヵ所の合計11の井戸を掘ったが、水の出はそれ程良くなかったようだ。そのため夏場などは柳瀬川の水を運んだといわれている。4ヵ所のうち、現在残っているのはこの多福寺境内の井戸だけだ。
 
■田中王堂
 多福寺境内には田中王堂の墓がある。王堂は慶応3年、中富村に生まれた哲学者。シカゴ大学でジョン・デューイの教えを受け、早稲田大学文学部の教授を歴任した。
 
■木宮地蔵
 多福寺に隣接してあるのが木宮地蔵堂だ。現在の堂は安永6年(1777)に再建されたもの。本堂内には木造の地蔵菩薩が安置され、天井には107枚の植物画が描かれている。
【メモ】
★多福寺
所在地/三芳町上富1542
電話/049(258)0837
交通/東上線ふじみ野駅西口から上富・三芳役場経由鶴瀬駅西口行きバスで多福寺前下車すぐ
★木宮地蔵
所在地/三芳町上富1501
交通/多福寺と同じバスで木宮下車
 

多門院界隈

 
 多福寺前交差点から西方向へ進むと多門院前交差点に出る。交差点のそばに多門院の駐車場があるので、そこに車を停めるといいだろう。
 
■多門院
 元禄9年に川越藩主の柳沢吉保が上富・中富・下富村を開村した際、一寺一社に基づいて、開拓農家の檀家寺として上富に多福寺を、中富に祈願所・鎮守の宮として毘沙門社を創建した。その毘沙門社が多門院だ。道路に沿って「多門院・毘沙門天・柳沢吉保公建立」の大きな看板が目に付く。
 寺伝によれば本尊の毘沙門天は武田信玄の守り本尊であり、信玄が戦に臨む時はいつも兜の中に毘沙門天の像を納めていたと伝えられている。毘沙門堂の前には狛犬ならぬ1対の虎が奉納されている。これは毘沙門天の御使が虎であることからだそうだ。
 このことから多門院では毎年5月1日に「寅まつり」が開催されている。さらに12年に1度、寅年の寅まつりでは本尊の毘沙門天が開帳される。
 
■身代わり寅
 毘沙門堂の前には数多くの身代わり寅が奉納されている。この身代わり寅は1体300円。奉納するだけでなく持ち帰る人も多いようだ。
 
■神明社
 多門院のすぐ横には神明社がある。神明社の境内には境内社として「いも神社」もある。ここでは甘藷乃神として吉田弥右衛門と青木昆陽を祀っているそうだ。
【メモ】
★多門院
所在地/所沢市中富1501
電話/04(2998)9253所沢市文化財保護課
交通/西武新宿線航空公園駅東口から「ところバス」北路線で「多聞院通り西」下車徒歩約5分
 
 
※詳しい記事は本紙にてご覧下さい。
 
 
 
 

 
 

多門院の虎

多門院


多門院

多門院の虎